お知らせ

倶利伽羅堂

2019/01/10

大山唯一の朱塗りの建物。二重滝の傍、現二重社のところにあって安政2年の大火で焼失を免れていたのを明治の初、ここに移した大山最古の堂です。

源 実朝が鎮雨の歌

時により過ぐれば 民の嘆きなり
八大竜王 雨止め 給へ

を捧げたのはこの堂で、大山への雨乞い、照乞いの主神はここであった。

前不動堂

2019/01/10

安政大火災後現在のケーブルの追分駅付近に建築されていたものを、今の位置に移築された。移築のさい一部を省いたため屋根も低くなっているが古さでは大山全山で第二位である本尊が本堂の昭和大修理により奉安殿に奉移したので、本堂には前不動の木造不動明王、二童子立像が移られている。現在このお堂には仏像は祭られていない。

大師堂

2019/01/10

弘法大師堂は明治40年東京浅草の不動講、本浅睦会の発願により本堂向かって左側に建立されましたが大正3年宝篋印塔が再建されるにつきその前年右側に移したものです。
内部には九十三体のお大師小像が置かれています。

鐘楼

2019/01/10

本来大山寺の梵鐘は徳川家光によって奉納されたものであるが、明治初年に破壊されくずとして払い下げられて、現在銘文「大檀那従一位左大臣源家光公」の部分のみが阿夫利神社々社務局に保存されている。
現在の鐘は昭和24年6月吉沢久造氏夫妻他賛助者多数によって奉納されたものである。
われわれはこの家光公の梵鐘を将来必ず復元したいと心に決めている。

宝篋印塔

2019/01/10


寛政7年(1795年)旧大山寺境内に建立。大正3年現境内に再建される。

香花を供えて右回りに3度回ると願がかなうといわれている

地上高約11m、青銅造りの宝篋印塔は、日本国中稀に見る精巧巨大な塔である。
  宝篋印塔は一功如来心秘密全身舎利 宝篋印陀羅尼経に依って建立するものなり。

寛政7年
(1795年)
大山11坊の内の広徳院憲海を勧進元として寛政7年に旧大山寺の境内に寄進建立された。大山全山を通じ、同じ境内の倶利伽羅龍王堂と共に、江戸時代から存続する建造物である。

作者:東都鋳師西村和泉守藤原政時
賛同者:関東一円の大山関連の寺院
修験者、信徒と僧俗混合の多数の寄進でできあがった。

明治初年 権田直助に率いられた廃仏を唱える暴徒たちによってバラバラに壊されて内部のお経とともに谷底に投げ捨てられる。
明治7年
(1874年)
大山の人々が谷底から丹念に拾い集め現境内に積み上げられるが、精巧巨大な青銅の建築物を修復復元する技術者が見つからないためそのまま保管される。
大正3年
(1914年)

取次先導師 二階堂若満、相原秀美、逸見民衛、東京土木建築有志によって再建された。
大山一山の喜びようは一方ではなく、大幡を押し立てて祝いに登った。
当時の盛大な祝賀ムードがよくわかる写真です。当時大山で最大の東西講が中心となって再建しました。東京土木建築有志は現在の大手建築会社の前身です。
大山講も各宿坊もこの時代までは、いかに大山不動尊を大切にしていたかが、よくわかります。
しかしこの20年後には軍国主義の台頭により、大山講からお不動様への信仰は完全に消し去られることになってしまいました。大山では阿夫利神社のみが唯一古来よりの信仰対象でなければならなかったからです。
ちなみに前列左から5人目が現東學坊の先々代 相原秀美氏です。

大正12年
(1923年)
関東大震災により上半分が欠落倒壊した。
大正15年 東京土木建築有志によって欠落した上半分を修理再建される。

経に曰く
若し人 福を求めて此塔の所に至って、一華一香を以って礼拝し
供養し右に廻って行動せば、是功徳に由って


官位栄耀 求めざるに自ら至り 出世し、富を得られる
寿命富饒 祈らざるに自ら増し 健康長寿がかなえられる
怨家盗賊 討たざるに自ら敗れ 恨みや犯罪人から守られる
疫癘邪気 払わざるに自ら避け 病気や悪霊から守られる
善夫良婦 求めざるに自ら得 すばらしい妻や夫にめぐりあえる
賢男善女 祈らざるに自ら生じ 素晴らしい男性、素晴らしい女性になれます。

登山参詣の善男善女は、この天下無双の霊塔前に謹んで礼拝し、塔の周りを右に三遍お回りなさい。

【 塔の大きさ 】

地盤 二丈五尺(9.45m四方) 鉄筋コンクリート
台石 高さ七尺四寸(2.24m)
重量八千五百貫(31.87t)
花崗岩
宝篋塔本体 高さ二丈八尺(8.484m)
重量九千貫(33.75t)
青銅

1丈 3.03m  10尺で1丈  1貫 3.75Kg

本堂

2019/01/10

大山寺の本堂は明治初年の廃仏毀釈によって破壊されていたものを明治18年に全国の 信者たちの寄進によって再建されたものです。
険しい山中のわずかな土地を平らにしこのような立派な本堂を建立した民衆の大山寺に対する信仰の厚さと、エネルギーには驚かされます。
また本堂周辺に彫られた彫刻の数々のすばらしさは一見に値するものです。当時の最高の職人たちが本堂再建に魂を打ち込んで仕事をしたことがひしひしと伝わってきます。

大山寺本堂の再建
明治初期現阿夫利神社下社にあった本堂伽藍は破壊され、多くの僧は四散して仮住まいが続くことになった。
明治六年本尊および僧職が仮の建て屋に移った。
大山寺大堂建立には相模武蔵はじめ諸国の信徒が浄財を、五里四方の村々からは欅(ケヤキ)の大木を寄進され  たので、九年間にものぼる難工事を克服して竣工した。

明治初年 廃仏稀釈によって本堂伽藍が破壊される。
明治6年 現場所に仮屋を建てご本尊や僧職、寺宝が移った。
この地にはもともと来迎院(茶湯寺)があり、大佛(おおほとけ)とよばれた巨大な五輪塔や、多くの玉垣、卵塔、五輪塔が整然とならんでいた。
しかし祈祷寺の近接に墓地を残すことができないため地元の人々の協力により大佛ひとつを残して整理移転され用地を確保した。
大佛は後年の災害により倒壊し現在その水輪の丸石が宝篋印塔前の香炉となって残されている。
明治9年 手斧始め
いよいよ地元の村々のみならず、関東一円、全日本の信者たちの協力による大工事が開始される。
まず整理されたとはいえ、本堂伽藍を再建するには、あまりにも敷地が狭いため多くの人々が協力して後山を削り整地して用地を確保した。大堂建築の主材となった欅の巨木を大堂建築地まで引き上げるには想像を絶する困難な事業となった。

まず材木を寄進した周辺の村々から夜を日に次いで人々が麓の子易明神まで運びつけた。
ここから上は伊勢原市上粕屋と子易の人たちが結集し、車も通れない石段作りの参道を雲井橋まで引き上げた。

雲井橋から上は段差が急で担ぎ上げができないため、山腹になだらかな勾配の道を開き谷には桟橋をかけ、いわゆる「引地道」を急造して麓の人々が総出で綱をつけて引きづり上げたのです。

この一番苦しい運材の難所を里の人々が奉仕で引き受けた故事から里謡にも歌い継がれました

大山不動さん 誰がたてた
山王原、七五三引き、子易がたてた
ドッコイ、ドッコイ、ドッコイショ

本堂のすばらしい彫刻の数々は当時名人といわれた名匠 手中明王太郎がかけつけ全霊をうちこんで彫刻を行った。

明治17年
11月
上棟式
明治19年
11月21日
入佛式
入佛式は七日間にわたって行われた。
その間大堂では毎日入佛御法楽がおこなわれた。
言い伝えや各種文章で残されているその様子から全国の信者たちの喜ぶ様子がひしひしと伝わってきます。1.田村の渡しなど相模川の主な渡船場には付近の船を寄せ集めて臨時の船橋 を架け期間中一切無料で関東一円より続々押しかける群衆に開放した。
2.大山道すべての辻、角に灯明をつけ昼夜の区別なく押しかける民衆の目印とした。
3.山頂で毎日修験者が焚く柴灯護摩の煙は、20Km四方から見えた。
4.当時の狭い道の行き交いに、石段に接した店や宿坊の板屋根の上を人が歩いた。材木を引き上げるための「引地道」も人の行列だった。
5.地元の茶屋やみやげ物店は大繁盛で7日目にはすべての品物を売り尽くし、それでも客が何でもいいから記念になるものをくれと言って、ろくろの嵌め型まで買っていったという。
6.また仮設能舞台が作られ、連日の能興行や、草競馬、草相撲などもおこなわれた。
7.また芝居の舞台をかけ、東京歌舞伎の奉納上演も行われた。
明治21年 大堂屋根を前面銅版葺き替えを行う。
昭和6年 銅版の一部を葺き替え、予算の関係で一部を鉄板にて葺き替え。
昭和45年 鉄板部のみ鉄板を上乗せ修理
昭和58年 今回全面を銅版にて葺き替え。
平成12年 台風による災害のため本道裏の山が崩れ宝物殿の一部と本堂の屋根の一部が破損、ご本尊が本堂内に移られる.
平成14年 神奈川県や伊勢原市の協力により裏山の復旧補強工事が完成

アクセス

お車の場合
◆国道246号線(厚木街道)の板戸交差点より6km
◆東名高速厚木IC より14km
【駐車場】
◆大山ケーブルカー大山ケーブル駅駅近くに市営第二駐車場有り(市営第一駐車場大型可)
ケーブル [大山ケーブル駅]→[大山寺駅]3分、駅から徒歩200m→大山寺
電車の場合
【電車・バス】
(1)小田急小田原線
→[伊勢原駅](駅北口へ)
例:新宿→伊勢原(小田急線)57分
(2)バス  [大山ケーブル行]→終点 約 25分(平日)
(3)徒歩500m→大山ケーブル駅
(4)ケーブル [大山ケーブル駅]→[大山寺駅]3分
(5)徒歩200m→大山寺
大山阿夫利神社からの場合
■ケーブル利用の場合
ケーブル [大山ケーブル駅]→[大山寺駅]3分、駅から徒歩200m→大山寺

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