像高 – 97.9cm
総高 – 287cm(8尺7寸)
重量 – 130貫( 約480Kg )
実際に拝んだ感覚は、その眼光と、威圧感により、はるかに巨大に見えます。
昭和62年平塚市の特別展用に撮影したお写真
文永11年(1264 年)に願行上人が鋳造。
本堂に鎮座するそのお姿の迫力ある威圧感と重量感には眼を見張るものがあり、 願行上人の強烈な念力に圧倒されます。
鎌倉時代より多くの武将、庶民がその御利益を賜ろうと参拝したのもうなずけます。
不動明王は心をこめて参拝する人々に、わけ隔てなく現世の悩み,苦難を助けてくださる仏様なので、本堂にて一心に願い事を祈ってください。
毎月8・18・28日がご開帳日となっています。
大山不動明王及び二童子像は鎌倉時代に鎌倉大楽寺の願行上人によって造られた。その霊力の強さと 御利益の大きさに時の将軍家はもとより、関東一円の武士や庶民に広く信仰された。
江戸時代には春日野局が家光が将軍になることを大山不動に祈願してその願いがかなったことから、 徳川家光によって強く信仰されることとなり大山寺にも数々の寄進や、造営がおこなわれた。
明治初期の廃仏による災難にも奇跡的に破壊を免れたのは、其の御利益を受けた多くの人々がまさに 死に物狂いで像をお守りしたからだといわれている。
また里さとに伝わる伝承によると、権田直助にひきいられた暴徒たちがこのお不動様を破壊しようと 本堂におしかけたところ、お不動様の形相がまさに血も凍るような恐ろしい形相に一変していたため、 余りの恐ろしさにだれひとり手を触れることができなかったため、破壊をまぬがれたとのことである。
また周辺の主だった寺院が数十年以上にわたって活動できなかったのに比べ、大山寺のみ異例に早く 再建が許されたのは、このお不動様に救われた多くの信者たちの要望が強かったのみならず、大山寺の破壊に加担した者たちがそのときの恐怖心の強さから、一刻も早くお不動様の怒りを静めてほしいためまったく妨害活動をしなかったからだともいわれています。
現在大山寺が存続し、多くの信者がお参りしたり、護摩祈祷をお願いできるのはまさにこのお不動様のおかげといえるでしょう。
文永11年(1264年) | 願行上人が58歳の時江ノ島の龍穴にこもって大山寺再興の祈願をなし、鉄造不動大像及び、せいたか童子、こんがら童子像を鋳造。 |
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当時大山が荒廃しているのを愁いた願行上人は、江ノ島の龍穴に祈って授かった金塊で工人をやとい,浜の砂鉄を集めて自らタタラをふみ土の像より型をとって鋳造したといわれている。 |
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安政2年 | 安政の修理が行われる。 |
明治初年 | 廃仏に便乗した暴徒たちの襲撃により大山全山ことごとく破壊されるが、お不動様はその威光により奇跡的に破壊を免れる。 |
明治2年 | お不動様を守るため時の住職は、遠く国府津にお不動様を移そうとした所、 国府津周辺の農民たち100人ほどが、お迎えに大山にやってきたが、大山の住民たちが仮の小屋に安置されていたお不動様の周りを囲んでお守りし、阻止する。 |
明治6年 | 現場所に仮屋を建てご本尊や僧職、寺宝が移った。 |
明治18年11月21日 | 現在の大山寺大堂(本堂)が完成。ご本尊が奉祀される。 |
昭和3年 | 国宝に指定される。 |
昭和5年 | 国宝指定後の補修作業が行われる。 |
戦後、国の重要文化財に再指定される。 |
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昭和48年 | 文部省補助事業により本尊昭和大修理を行う |
明治初年 | ご本尊は700年の間に数度の火難に遭われてきたが、強靭にもすべて、耐えてこられることができた。昭和の大修理は、国が10年かけて開発した鉄と最も相性の良い合成樹脂の開発により過去の傷みの修復が可能になったことから行われた。 |